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2011年9月

そこまでいってない

 バンコクから南下して、マレー半島の中程にあるチュムポーンから船で二時間、サムイ島近くのタオ島に彼女と来た。タオ島はバイクで一周するのに一時間もかからない小さな島で珊瑚礁に囲まれた美しい島だ。
 島の北側には離れ小島が二つあり、本島からそこまでは砂州伝いに歩いていける。そこら辺はダイバーがライセンス講習で使ったり、家族連れがシュノーケリングするのに適した珊瑚礁が広がり、浅瀬でも熱帯魚がたくさんいる。砂州にはそういった観光客のためにビーチベッドとパラソルのセットが四十ほど並べてある。
 勝手に使っていると黄色いポロシャツを着た現地人の男がやってきた。
「100バーツだ」
「一日で?」
「ああ」   
 ぼくは財布から人生ゲームの紙幣のようにちゃちい100バーツ紙幣を取り出して渡した。
 男は金を受け取ると、反対側へ歩いていった。見ると、男の向かう先にキョロキョロ辺りを見回してビーチベッドに腰掛けたカップルがいる。男は砂州を往復しながら未払いの客を見つけては料金を徴収しているのだろう。客がみな一日使っていればいいが、実際には数時間で客が入れ替わるだろうから、このやり方だと、誰が金を払った客かその都度覚えてないといけない。日本人のぼくからすればそれは無駄な労力というものだし、非効率的だ。
 もし自分がパラソル係だったらどうするだろう、と考えた。まず、全てのパラソルが見渡せる場所に自分用のパラソルと椅子を置く。目立つ場所に大きく「パラソル受付」などと書いた紙を貼っておく。これで大半の客は自ら金を払いに来てくれるから、徴収しにいく手間が省ける。さらに、個々のパラソルに通し番号を割り当て、番号を書いておく。金を払った客に何番のパラソルを使うか訊いて「使用中」の札を渡す。それをパラソルの下に吊してもらう。帰るときにその札を持ってくるように頼む。こうしておけば、自分は休みながら全てのパラソルの状況を一元管理できる。もちろん、札を返さないまま帰ってしまう客や受付に気づかず無断で使う客もいるだろうが、それは一時間に一、二回見回れば十分だろう。
 ぼくは隣でサンオイルを塗っている彼女に以上のことを説明した。
「タイはアジアの途上国の中では優等生なんて言われてるけど、まだまだ、だな」
「まだ、考え方がそこまでいってないんだね。でも、素朴でいいよね」
「ああ。やっぱり熱帯の人はね、ゆるいよ、そういうとこ。自然体でいいんだけど」
「やっぱり日本人の仕事ってかなり細かいよね」
「接客の仕方を見てると、ほんとそう思う。うちらのホテルの従業員だってけっこうひどいよね」
「ね。あんなの日本だったら、客からクレームきてすぐクビになっちゃうよね」
 あんなのと言ったのは、朝、ホテルを出る前に部屋のセイフティボックスの使い方がわからず、人を呼んだのだ。やってきたハウスキーパーの女性が使い方を説明してくれるのだが、たどたどしい英語で説明するため、なかなか要領がつかめず、何度も同じ説明をさせてしまった。その女性は目の前で大きくため息をついたり、舌打ちした。接客業の人間がそういう短気を見せたことにも驚いたが、タイに来てから何度もそういう人を見ていたのでそう悪い感じはしなかった。別に客相手に本気でキレてるわけじゃなく、「あーあ」とか「ああ、もうっ」みたいなニュアンスで自分の中でふて腐れてるだけなのだ。人間味があっていいと思う。海辺のレストランの従業員が洗ったばかりの箸を砂浜の上にぶちまけてしまった時に見せた、この世の終わりのような顔もよかった。 
         ◇
 隣のパラソルに客が来て、また件の男がやってきた。声を掛けて、さっきのパラソル管理法を教えた。その方が楽じゃないかと。
 男はふんふんと頷いてから、砂州の入り口にある一番端のパラソルを眺めて言った。
「でも、今のやり方で特に不自由は感じないけどな・・・」
「だって金を払った客を覚えてないといけないし、端っこの方になるとわざわざ歩いていって確認しなきゃいけないじゃないか」
「目はいいからどっからでも全部のパラソルが見えるんだ。それに自分が金を受け取った客ぐらい覚えてるよ。じゃ、一番向こうからいくよ。イギリス人の中年夫婦。さっきこの辺にいたんだが、席を移ったみたいだな。その隣、日本人のカップル。今はダイブ中でいないが場所は空けておくという約束。二つ空いてその隣、アメリカ人の家族連れ。去年も来たらしいが、おれは覚えてない。次、裕福なタイ人の女二人。あれは多分レズだな。次とその隣が日本人のダイバー四人、パラソル一個で100バーツだって言ったのに、一人100バーツ払ってくれた。だから日本人は好きだ。まだ続けるか?」
「すごいな。本当に全部覚えてるんだ」
「どうして覚えることや歩くことを面倒だと思うのかわからないよ」
「大した手間じゃなくてもそこでエネルギーをセーブしておけば、他のことに使えるじゃないか」
「他のことって何だ?どんなやり方にしてもここで見張り番をすることに変わりはない。それがおれの仕事だ。客を覚えるったって特別頭を使ってるわけじゃない。金をもらう時にどこから来たか聞いたり、服装とか訛りとかで自然に印象に残る。」
        ◇
 帰りの飛行機の中で例のパラソル係のことを思い出した。男が客の特徴を全部覚えていたシーンによく似た光景をどこかで見たことがあるような気がするのだが、思い出せそうで思い出せない。機内食が回ってきた時、突然思い出した。それは豚骨ラーメン屋の店員が客のお好みオーダーをおさらいするのに似ているのだ。店によっては背脂少なめ、味薄め、麺硬めなどと細かくお好み注文を受ける店が多いのだが、食券を買った時点ではそこまで指定できず、口頭で後から言うことになっている。客が同時にたくさん来ると、作る側が細かい好みまで把握しきれないので、覚える係が作り手にそれをおさらいする場面がある。それがちょうどこんな具合なのだ。
「流します。奥から脂少なめ、麺硬め。お次が脂多め、麺大盛りのバリ硬、味濃いめ。お次が味普通、麺柔め、脂少なめ・・・」
 ・・・そこまでいってないというわけでもなさそうだ。

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