思い出

レモンティー事件

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「紅茶にレモンかミルクをおつけしますか?」

 ウェイトレスにそう訊かれた時、随分昔の記憶が脳裏をよぎった。小学校五、六年ぐらいの「レモンティー事件」のことだ。

 人間の力関係は歳とともに変わっていく。一般的に言って小学校低学年ぐらいでは腕力、気の強さなどの最も原始的な強さがものを言う。中学年ぐらいになると運動神経やユーモアのセンスが人望を左右し、女の子からもモテる。高学年になると人柄、色気、ファッションセンスなどへと移り、さらに成長していくうちに学力や経済力、才能、地位、とその基準はどんどん現実的になっていく。

 その事件は小学校5年の夏頃におこった。体育でプールに入った後のこと、男子更衣室に一枚のパンツが落ちていた。学校にアコースティックギターを持ってくる熱血教師がその場でパンツを振りかざし、

「このパンツ誰のだー?」

と訊くのだが、そんな状況で自分のだと名乗り出られるほど日本の子供社会は甘くない。何しろ大便一つしても冷やかされるような小学校でのこと。結局誰も名乗り出ることはなかった。
 目ざとい誰かが言った。

「なんかそのパンツ、黄色いシミついてるよな」

 その一言を受けてクラスの男連中は騒然となった。小便ちびりの犯人は誰かと魔女狩りの様相を呈してきたのである。

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おまけに教室へと戻る途中で新たな証言が飛び出した。

「Sは着替えてる時にパンツを履いてなかった。」

 Sは低学年時から抜群の運動神経と野原を駆け回って育った野生児ぶりとで知られるいじめっ子の一人だった。Sに対する長年の恨み辛みが多くの男子の中に燻っていたこと、Sの体格が他の男子に比較してあまり成長しなかったこと、みんなの価値観が個人の体力信仰を脱して多様化していく過渡期であったことが絶妙にリンクして、一人の少年の口を開かせた。

「・・・レモンティー」

 人混みの中から誰かがそう呟くのが聞こえた。その呟きは水面に波紋が広がるように男子の心を次々と虜にしていった。

「レッモンティー!」

「レッモンティー!」

(アクセントは前に置き、尻上がりに)

 あちこちから声が上がるようになると、もう誰もSの報復など恐れてはいなかった。全ての男子が「レモンティー」の大合唱に参加していた。すなわち、下剋上が起きたのである。

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 その時のSの様子がどうだったかは覚えていない。さすがにあまりに痛々しくて見ていられなかったような気がする。実際そのパンツがSのものだったのか、黄色いシミが本当についていたのかすら定かではない。集団心理の恐ろしさをまざまざと思い知らされた事件だった。

 少年時代の苦い記憶から我に返ると、ウェイトレスがキレ気味に言った。

「レモンかミルクは?」

「レモンを」

 確かにそう言ったはずだが、数分後に運ばれてきたのはミルクだった。ミルクティーを飲みながら、かつてレモンティーと呼ばれた男の今を想った。

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