エッセイ

井上家の闘争

 そのゴミが井上家の前にあるのを見たのは、17日の朝だった。
 夜、帰宅した時もゴミはそこにあった。清掃局の職員が貼ったのだろう。黄色いシールが貼ってあった。
 「分別して下さい。分別されていないゴミは収集できません」
 18日の朝になると、清掃局のシールに答えるように紙が貼られていた。
 「持ち主不明」
 赤文字であるところに書いた人(おそらく井上)の怒りが表れている。
 19日の夜になると、「持ち主不明」の紙に重ねる形でまた貼り紙があった。
 「うちのゴミではありません 4/19 井上」
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 筆跡を見れば、やはり「持ち主不明」の貼り紙が井上によるものだとわかる。井上は18日から19日にかけて成長している。このままでは近所から誤解されて白い目で見られるのではないか、などと考えたのだろう。「やはり記名しかない」と決意したのに違いない。
 
 20日になって事態は急展開を見せる。孤軍奮闘の井上家に援軍が現れたのだ。その貼り紙にはこう書かれていた。
 「井上家のゴミ出しは模範的です。今だに出し手が持ち帰らぬところを見ると、他地区からの投げ込みと思われます。 4/20 局殿」
 井上の実直な生活が報われたのだ。
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 近所づきあいがなくなり、孤独死などが社会問題化しているが、この匿名の援軍のようにこっそりと隣人を見ている人は多い。私も「左巻きがそんなゴミ出しをするはずがない」と証言してもらえるように分別には妥協したくない。

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かわいい子注意報

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 故・中島らもが昔エッセイで書いていたこと。ある動物学者がこんな仮説を唱えた。

  哺乳類の赤ちゃんというのは犬、猫、豚、なんにせよ無茶苦茶かわいい。もしかしてこの“かわいさ”は、あらゆる動物に対して有効な“かわいさ”なのではないか。その証拠に、しばしば人間以外の動物も哺乳類の子供を拾って育てていたという事例がある。自らの種の保存を最優先にして生きる野生動物が、他の種の子供を育てるのはかなり異常なことのはずだ。これはもはや“武器”と言っていいぐらいだ。
 つまり、哺乳類の赤ちゃんは自然界で生き延びるには余りにも弱く、長い間親がかりでそのままでは生存しにくい。だからある種の生物が生まれつき敵から身を守るための武器として猛毒を備えているように、哺乳類も“かわいさ”を備えているのではないか。かわいさで他の動物を腰砕けにして戦意を喪失させたり、母性本能を刺激するために。

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  このユニークな仮説を援用して、中島らもは「女性もかわいい子はたくさんいるが、自分は相手がただかわいいだけでは突進しない。なぜなら、そのかわいさは愚かさや病弱さなど生存上の大きな欠点を補うために備わっている長所かもしれないからだ。」というわけ。(中島らもってそんなに理性的な人じゃなかったはずだが・・・) 

 ま、冗談半分に言ってるわけだが、人間の場合、かわいいことで周囲から甘やかされてスポイルされてしまうことは往々にしてある。だから、自分のパートナーを選ぶ時に「かわいい子」をターゲットから除外できるなら、それに越したことはないかもしれない。
 かわいい子が外見でチヤホヤされるのもせいぜい二十代までだから、その後は人間力でサバイバルしなきゃいけない。
 ゲイを見てると思うが、苦境にある自分を笑い飛ばすユーモアのセンスや精神的タフさって、やっぱり虐げられたり、辛い目にあって修羅場をくぐり抜ける中で身についていくもののような気がする。それなのに人格形成期に人間力を磨くチャンスを持ちにくかったかわいい子たちは、かなりのハンデを背負ってることになる。
 だからかわいい子って結局、トータルではものすごい損をしてて、可哀想なんだよな。やっぱりおれが守ってあげないと・・・。
 こうして世の男たちは今日も術中にハマっているわけです。

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ネパール人とぼくとローリエ

 ネパール人がやっている店に行った。スパイスや豆など、あちら系レストランに食材を卸している店だ。店内では男二人、女一人のネパール人(経営してる人たち)が世間話をしていた。
 ぼくはジンジャーパウダーはないかと訊いたついでに、つい先日、大阪でネパール人が殴る蹴るの暴行を受けて殺されたことに触れ、日本人代表としてなんだか申し訳ないと思い、その気持ちを伝えた。自分がネパールに旅した時に宿の主にとても親切にしてもらったことや、そこで毎晩手で食べたダルバートのおいしさを今でも覚えている、とも。 
 実際、ぼく自身は今までヒドいネパール人に会ったことがない。みな穏やかで親切だ。もちろんどこの国にだって色んな人がいるわけだが。
 店主に「なにか力になれることはないか」と訊くと、隣の男と顔を見合わせて「とくにない」と言う。
 「じゃあ、なんか日本で暮らして困ってること、日本人に訊かないとわからないこととかない?」と訊いた。意地でも役に立ちたかった。親切のごり押し。 
 少し考えて店主は「ヤザワ・・・」と言った。
 「え?」
 「“ヤザワ”なんで人気?わからない。ワタシ友達にも訊いた。でもみんなわからない。あの人すごい自分に自信ある。でも良さわからない。」
 ぼくは深く頷いて「“成り上がり”ってわかる?」と訊いた。
 すぐにDo you know NARIAGARI?と英語にしてみたが、肝心の“成り上がり”が英語じゃないので意味がなかった。そもそもネパール人は英語堪能じゃない。店主は頭を振った。ぼくはあっさりヤザワの良さを伝えることを諦めた。ぼく自身もよくわからないことを教えられない。
 スパイスの棚にローリエによく似た葉っぱがあった。袋に両手いっぱい詰まって百円だった。「これ何?」「ネパールでよく使う。香りつける。△◎○□と言います。」
 現地での呼び名を教えてくれたが聞き取れなかった。
 「ローリエじゃないの?」
 「違う。△◎○□。チャイとかカレーに入れる」
 やっぱり名前が聞き取れない。ぼくはその葉っぱとチャイの茶葉を買った。
 家に帰ってローリエとその葉っぱを見比べた。
 完全にローリエだった。

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手袋を拾う気分

 

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 朝の通勤時、電車に乗ったら手袋が落ちている。ひとつ、少し間隔を空けてもう一つ。頭の中でこの車両で少し前に起こったであろう出来事が再生される。
         ◇
 一つか二つ前の駅で電車が停まる。
 駅名を告げるアナウンスが流れ、乗客がいくらか降り、入れ違いにまたいくらか乗ってくる。
 眠っていた客が目を覚まし、膝の上に持っていた手袋を落としたのも気づかずに慌てて掛け出て行く。
         ◇
 乗客はまばらで座席もちらほら空いている。そんな混み具合。手袋を挟んで両側に長い座席がある。客はみな手袋に気づいているが、置き去りの空き缶同様、誰も拾わない。誰かが盗みたくなるような高価な手袋でもない。
 ぼくも手袋を跨ぎ越して空いている席に座った。本を開いたが、どうも手袋が気になる。誰かが拾ってないだろうか。手袋のある方を覗いてみる。やっぱり、まだそのまま落ちている。
 片方なら気にならなかったのに。
 一揃いの手袋が走っている電車に落ちているのはあまりいい風景じゃない。手袋が拾われないことがなんだか人心の荒廃ぶりをくっきりと証明しているように思える。
 壁に落書きが多かったり、ゴミが散乱している地域ほど治安が悪くなるというデータがある。汚い部屋にいると気分も腐り自堕落な生活になりがちなのと同じだ。人の心と場の状態は互いに影響を及ぼし合って循環している。いつでも、どこでも。
 ぼくは本を閉じて手袋を拾った。そしてそれとなくたたんで膝の上に置いた。ジョギングする人が使うようなスポーツタイプの、千円で買えるような代物。拾う前のむず痒い気分はすっかり晴れた。
 網棚の上にある車両番号を見て、頭の中で「たった今2番線に入ってきた電車の4号車に落ちてました」とシミュレーションしてみる。
 落とし主も駅員に問い合わせたりしないで新しいのを買うかもしれない。手袋は毎日JRの遺失物センターに届けられる膨大な量の落とし物の一つとしてしばらくの間取り置かれ、やがて廃棄されるだろう。それでもいい。
 自分は決して良識のある模範的な人間じゃない。状況と懐具合によっては拾った財布から札だけ抜いて捨てておくようなこともできる人間だ。
 だからいい格好がしたかったわけじゃない。ただ、電車の中にひとそろいの手袋が落ちていて、それを誰も拾わないでいることが当たり前の風景じゃないと示したかっただけだ。
 いや、そんな立派な動機じゃない。
 ただ気持ちがむずむずしてるのが嫌だっただけだ。

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